若手研究者に聞く-奨励賞受賞者からのコメント-
「花形」研究より「奥の深い」研究を神戸大学大学院医学研究科
伊藤俊樹
私が理学部4年生だった1990年代の前半、生命科学の分野ではいわゆる「細胞内情報伝達」の研究が隆盛期を迎え、実験医学の特集号に毎月のように取り上げられるほどの「花形」研究分野となっていました。大学院での研究室を探していた私は、当時医科学研究所から学部の講義に来られた竹縄忠臣先生が、チロシンキナーゼ情報伝達に関与するSH2、SH3ドメインや、竹縄研で新たに同定されたアダプター蛋白質であるGrb2(竹縄研ではAshと命名)などについて熱く語るのを聞き、たちまちこの「花形」研究分野に魅了されてしまいました。「ミーハー根性」に突き動かされたと言ってもいいと思います。気がつくと早速医科研まで押し掛けて行き、大学院から受け入れて頂く約束を取り付けていたのでした。翌春、晴れて所属することとなった竹縄研ではGrb2下流分子の同定が着々と進んでおり、中でもN-WASPやWAVEファミリーの相次ぐ発見は細胞外情報がアクチン細胞骨格を制御する仕組みを初めて明らかにするもので、同じ研究室に身を置く一人として非常に興奮しながら「傍観」することとなりました。傍観…そうです。今流行りの研究をしたいと飛び込んだ研究室でしたが、実際の自分自身の研究テーマはそこからどんどん離れて行き、気がつくとなんだか古くさい(と当時の私には思えた)「リン脂質代謝」になっていたのです。元来、竹縄研の伝統的な研究テーマは「イノシトールリン脂質代謝」であり、当時も助手の深見希代子先生(現東京薬科大教授)を中心に数人で細々と(?)続けられていました。花形であるN-WASPグループに参加できなかった私は、今にして思えば「仕方なく」このリン脂質グループに加わったような気がします。
しかし、実際にイノシトールリン脂質代謝酵素の同定や性状解析を進めていくうち、これらの脂質代謝経路が極めて多彩な生命現象に関わることが不思議に思えて来ました。細胞膜を構成する小分子に過ぎないイノシトールリン脂質が特定の機能を発現するには、「特異的な蛋白質との相互作用」を介しているはずです。そこで、個々の機能を担うイノシトールリン脂質結合蛋白質を同定しようとあれこれ試行錯誤を繰り返しましたが、ありふれた疎水性の蛋白質が採れてくるばかりでなかなかうまく行きません。丁度その頃ヒトゲノムが解読され、多くの蛋白質が進化上保存された一次構造上の機能単位である「ドメイン(モジュール)」から成り立つことが分かっていました。ある日データベースを眺めていた私は、一次構造上保存された「ドメイン」として定義されながら、生化学的な機能が分かっていないものが実に数多く存在することに気がつきました。リン脂質との相互作用が生命にとって重要な機能であるならば、それを担うドメインもまた進化上保存されているはずです。早速ありとあらゆる機能不明ドメインをピックアップし、それらが脂質結合活性を持つのかを一つ一つ調べて行きました。すると、エンドサイトーシス関連蛋白質に保存された「ENTHドメイン」と呼ばれる領域がイノシトールリン脂質に強く結合することが分かったのです。
この発見を端緒にして、私の研究はエンドサイトーシスにおける細胞膜の形状変化を担う「生体膜変形ドメイン」へと展開し、今日に至っています。リン脂質は確かに生体膜を構成する小分子に過ぎませんが、脂質分子が二次元的に集合した生体膜は生命秩序の創出と維持にとって必須の構造体です。細胞質蛋白質と脂質との可逆的な相互作用が生体膜の二次元平面を三次元曲面へとダイナミックに変換し、細胞内小胞輸送や細胞分裂、細胞運動などに深く関わることに気づかされ、日々わくわくしながら研究を進めています。大学院生の頃「仕方なく」始めたリン脂質研究ですが、これほどまでに奥の深い研究テーマを与えて下さった竹縄先生には感謝の思いでいっぱいです。
近年、発生生物学やゲノム科学、システムズバイオロジーといったマクロかつ俯瞰的な研究領域が「花形研究分野」として注目を集めています。それに対して「生化学」という言葉は、むしろ近視眼的な古くさいイメージで捉えられているように思います。確かに、個々の生体分子がシステムとして振舞う挙動は生命の理解に不可欠ですし、個体レベルでの生理的解析もなくてはならない作業です。しかし、一つ一つの生体分子の物性を「より正確に」理解し、それらが組み上げる精巧な分子メカニズムを再構成することは生命科学の根幹であるとも思います。私はこれからも生化学を基盤にした「奥の深い」研究を目指して行きたいと思っています。