日本生化学会会員のみなさん、

 

今号では研究における言語について考えます。

 

 昨年末に、会員のみなさんから“大会のあり方”についてウェブ上で意見をいただきました。使用言語に関する設問への回答では「発表と討論での言語は自由にする」が大多数であり、自由記述では“日本語で発表して日本語で討論する”との意見が大半を占めていました。ほぼすべての会員は英文で論文を書いているはずであり、この調査結果は“学会発表は日本語・論文発表は英語”を意味しています。日本語での学会発表を支持する理由として、“英語でまともな討論のできる会員は少ない”や“大学院生などの若い会員には英語での発表は敷居が高い”など、英語力の稚拙さを挙げる人が多くみられました。それでは、私たちの英会話力さえ上がれば、英語で発表と討論を行う大会にできるのでしょうか。そんなに単純なことではないかもしれません。

 

 みなさんは論文原稿を作る時に、どのように思考していますか。私は、まず書きたいことの要点を日本語で考えて和文で箇条書きにし、次にそれに沿って(たぶん)あまり頭を使わずに英文を作ってゆきます。私にとって、論文の内容を初めから英語で考えることは難しく、論理的な思考では母国語である日本語が優勢です。

 

 このように“やっぱり日本人は日本語で思考するんだな”と思っていたところ、新聞の書評で「日本語の科学が世界を変える」という本(松尾義之著、筑摩選書、2015年1月)を知りました。松尾氏は東京農工大学工学部卒で「日経サイエンス」の副編集長を務めた方です。この本で松尾氏は、日本での科学は日本語で育まれてきた、科学に関する外国語の単語や記述を日本語へ翻訳する過程で付加価値が生まれる、オリジナリティーに乏しい内容の英語論文を書くくらいなら概念を説く論文を日本語で発信しよう、などといった主張を展開しています。

 

 文部科学省は、“国際化”を“グローバル化”と言い換え、大学での教育の英語化を進めようとしています。教員には英語での授業、学生には英語検定試験受験や在学中の海外留学などが義務化されてゆきます。採用時にTOEICなどの点数で応募者を足切りする企業も増えてきました。私たち大学教員は、“英語を使えないと国内企業にさえ就職できない”と学生を指導する一方、“英語ではまともな議論にならない”と学会では日本語での発表と討論を続けています。公式な場で日本人が英語を使うと、“本田選手は記者団の質問に英語で応じた”のように、“英語で”という但し書きが付け加えられます。日本人にとっての英語、特に英会話は、黒船来航のトラウマかもしれません。

 

 英語で発表と討論を行うとまともな議論にならないのは、英会話ができないからではなく、日本人の頭脳は日本語で考える構造になっているからではないでしょうか。私たちは、英語を使う能力と英語で思考する能力を区別して扱わないと、英語は使えるが論理的思考のできない学生ばかりを作ってしまいかねません。

 

 そうは言っても、国際的な学術集会では英語での発表と討論をやらねばなりません。ITC技術の進歩が「ウェアラブル瞬時通訳装置」を登場させてくれるまでは、英語で思考する力を養うべく頭の構造を変える努力を続ける必要があります。

 

 2015年3月

中西義信